GHQ憲法というプロパガンダワード

GHQ憲法というプロパガンダワード

 

存在が消された日本国憲法の下地を作った民間の「憲法研究会」

現憲法について、参議院のページにはこのように書かれています。

『GHQの軍事占領下で我が国の独立が奪われた時期に制定され、独立国の憲法として認めることはできない』

GHQ憲法という言葉を最初に使ったのは、岸信介。

憲法の中身より制定過程を問題にして改憲の必要性を訴えました。

今でも改憲派は、戦争に負けてGHQが1週間で作った憲法、日本の弱体化を目指した憲法だという表現でなにかと現憲法を蔑み、改憲へのはずみにしようとします。

けれど、コロナパンデミックの時、EUやカナダではワクチン義務化反対のデモに警察が発砲したり、マスクをしてない人を手荒に排除して罰金を課したり、政府が弾圧に近い形で国民を取り締まっていた中、日本では、そこまで公権力が国民に強く出ることはありませんでした。

その理由は、日本国憲法が日本人の人権を最高法規に書き、すべての条文で人権が守られているからだと聞きました。

敵国が作った憲法だというのになぜ日本国民の人権がこれほど守られているのだろう。

そこで調べてみると、NHKのドキュメンタリー3本を発見。

わかったのことは、日本国憲法は決してGHQの押し付け憲法ではないということ。

むしろ、戦前戦中、日本政府の言論統制で投獄されたり、執筆の場を奪われたりしてきた作家や学者などで構成された「憲法研究会」が大きく日本国憲法の作成に関わっていたことがわかってきました。

この大事な事実がなぜ周知されていないのでしょうか。

「天皇は君臨すれども統治せず」や、「国民主権」「言論の自由」「男女平等」などの「基本的人権」を保障し、「平和主義の思想」は、その日本人の「憲法研究会」が草案に書いていることでした。

もともと、GHQが日本政府に求めていたのは非軍事と民主化で、天皇や政府に与えられていた絶大な権力を削ぐことでした。

GHQとは別にもう一つ、戦勝国で構成された極東委員会(戦勝国11か国、アメリカ,イギリス,ソ連,中華民国,フランス,オランダ,カナダ, オーストラリア,ニュージーランド,インド,フィリピン)では、より天皇については厳しい意見があり、天皇を戦犯として調査し、裁判にかけるべきだと考えている国もありました。

そんな中、日本政府は、あくまでも天皇中心の国家、国体護持だけは譲れないものと考えていました。

日本政府の天皇を中心とした改正草案が、GHQや極東委員会に受け入れられるわけがなく、そのために何度も政府案は押し返されることになるのです。

そうこうしている間に、痺れを切らせた極東委員会はGHQには任せられないとして、組織の構造を変え、極東委員会をトップに、アメリカ、GHQはその下に置くことに決めてしまいます。

今までの占領政策は、

アメリカ→GHQ→日本

1946年2月26日からは

極東委員会→アメリカ→GHQ→日本

へと変化させると言ってきたのです。

これにより、憲法改正には極東委員会の事前の承認が必要になったのです。

天皇の権力は削いでも、存在は残したいGHQと天皇の罪を問い、裁判にかけたいと考えていた極東委員会。

ここからGHQは極東委員会の事前承認が必要となる2月26日の前に憲法草案を完成させたいと、急ピッチの作業に取り掛かります。

わずか1週間で作った憲法と言われる理由は、ここにありました。

その時GHQが参考にしていたのが、日本人の「憲法研究会」が公表した憲法草案でした。新聞でも公開され、GHQは2日でそれを英訳して新憲法に取り入れているのです。

日本国憲法の制定過程を描いたNHKのドキュメンタリー番組3本

憲法制定までの経緯を、NHKはドキュメンタリーとして報道していました。

題名をクリックすると動画に飛びます。

以下の番組では、マッカーサーが日本に降り立ってから憲法制定までの1年間を記録している。

アメリカで新たに発見された資料、当時まだ存命であったGHQ運営委員会の人からの直接のインタビューなどが収められている、↓

「日本国憲法誕生」

日本人の「憲法研究会」に焦点を当てたのが以下の番組。敗戦後、多くの日本人による憲法草案がいくつも作られていたこと。中でも日本人の学者や作家からなる「憲法研究会」による憲法草案は新聞でも公表され、その草案をGHQはすぐに英訳し、憲法の下地としたことや明治憲法制定の時に国民が考えた憲法草案がここで生かされたことも描かれている、↓

「焼け跡から生まれた憲法草案」

日本国憲法制定に大きな役割を果たした憲法学者 鈴木安蔵。彼が国民のための憲法を作るために費やした時間と戦前の弾圧の日々が描かれている。

鈴木泰蔵に日本の憲法を作るように言ったのはカナダ人外交官ハーバード・ノーマン氏。カナダ政府からGHQに派遣され来日していた。

マッカーサーは日本人が自発的に憲法を改正することを望んでいた。

どの番組も日本人なら必ずみるべきだと思いました。

日本の憲法が簡単に改憲できないようになっている意味は、改憲派がいうようなGHQが日本を独立させないため、弱体化させたいためではないと思いました。

戦前の言論弾圧や、格差社会の中でも何も守られず、天皇の臣民という位置付けで戦争に突き進む中、人権のなかった日本国民こそが、簡単に憲法を変えられて再び政府が権力を持って暴走しないよう、縛りをつけたかったというのが真相ではないでしょうか。

臣民君主の支配対象とされる者。天皇への絶対的服従がその規範であった。 日本国憲法で主権在民が宣せられ,臣民の語は消えた。

また、外国にとっても、このような強力な君主制と君主に忠実な国民は政府の命令でいつ暴走するかわからないものとして、とても怖がられていたのだと思います。

日本は、海外から、ちょうど今の北朝鮮のような国家にみえていたのではないでしょうか。

日本国憲法誕生までの1年間の流れ

NHK2007年4月29日放送
「日本国憲法誕生」
日本国憲法が生まれるまでの1年を追う
日本国憲法では、第1条では、天皇は国の象徴であり、主権は国民にあることが定められた。
さらに9条には、戦争の放棄がうたわれ、平和主義が打ち出されました。
「国民主権」と「戦争の放棄」の条文はどのようにして誕生したのか。
憲法はGHQ、連合国軍総司部の占領下で作られ、マッカーサーのもと、GHQのスタッフが、わずか1週間で草案を作成されたと言われてきました。
が、新たな資料が公開され、日本人の発案で、条文が修正、追加されたことがわかってきました。
「生存権」や「義務教育」の延長などが、議会での自発的な提案によって実現しました。
さらに戦争の放棄を規定した、第9条の修正をめぐる経緯も浮かび上がってきました。
〜略〜

憲法誕生の舞台裏で繰り広げられたGHQと日本政府の交渉。そしてそれを見つめ続けた国際社会。日本国憲法が生まれるまでの1年を追いました。

3:26 日本国憲法誕生 (タイトル)

1945年8月15日、敗戦。ポツダム宣言を受け入れ降伏。

8月30日 連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に降り立ちます。

日本の非軍事化、民主化という使命を帯びていました。

9月27日、昭和天皇と会見。天皇を占領政策の中、どのように位置付けるのか大きな課題でした。

大日本国憲法(明治憲法)では、

天皇は神聖にして侵すべからずとされ、陸海軍を統帥し、統治権の全てを握っていました。

4:38~ アメリカ ニューヨーク州

当時、GHQは占領政策の中で、日本の憲法をどのように扱おうとしたのか。

終戦直後来日し、GHQに勤務することになった ミルトン・エスマン(88)氏

エスマン氏はのちにGHQで憲法草案の作成に関わることになります。

エスマン氏

「明治憲法は、改正するだけでなく、解体する必要がありました。我々は当初、日本の非軍事化と民主化という基本的条件を満たす憲法草案を、日本政府が自ら作成することを期待していました。

その方が我々にとっても望ましいと考えていたのです。」

ナレーション

日本政府が自発的に憲法改正することを望んでいたGHQ

当初、日本政府が(自発的に)憲法改正をすることを望んでいたというGHQ。

10月11日、マッカーサーは総理大臣に就任したばかりの幣原首相と面談します。

マッカーサーは、憲法の自由主義化は避けられないとして、憲法改正に取り組むよう幣原に示唆しました。

マッカーサーの要望を受けて、日本政府は憲法問題調査委員会を設置。
憲法学者や官僚をメンバーに、明治憲法の改正が必要かどうか、研究を始めます。
委員長は松本烝治国務大臣
松本は天皇の統治権を維持し、天皇中心の国会体制、いわゆる国体護持を最優先課題に掲げます。

6:57政府に憲法改正を促す一方、マッカーサーは言論の自由化を進め、これまでタブーとされてきた天皇に関する議論を解禁しました。

政党が復活し、活動を開始。

国体護持を掲げる保守政党から、鳩山一郎、片山哲。

天皇制廃止を訴える共産党

まで、憲法の改正をめぐる論議が活発化。

民間からも様々な憲法草案が公表されます。

7:36

GHQは憲法に関する日本の世論を注視していました。民間の草案を英訳し、分析を始めます。

アメリカのトルーマンライブラリー(アメリカ ミズーリー州)には、GHQで憲法問題を担当した将校の証言テープが保存されています。

GHQ民政局法規課長 マイロ・ラウエル中佐

GHQが憲法草案を作成する際、中心的な役割を果たした人物。

ラウエル氏

「私は民間グループから提出された憲法に感心しました。これで(憲法改正が)大きく進展すると思いました。」

GHQラウエルが注目した日本人による「憲法草案要綱」

日本政府があくまでも天皇の統治権を維持し、天皇中心の国会体制、いわゆる国体護持を最優先課題に掲げるなか、

ラウエルが注目したのは、日本人の憲法研究会が出した「憲法草案要綱」でした。

8:25 憲法草案要綱 民間の「憲法研究会」というグループが作成したものです。

そこには、

「日本国の統治権は日本国民より発す」とあり、

「国民主権」が明確にうたわれていました。

「男女平等」や「言論の自由」など「基本的人権」を保障し、「平和主義の思想」も盛り込まれています。

憲法研究会は戦前から言論界で活躍してきた、学者やジャーナリストがメンバーです。

そのほとんどが、言論統制で投獄されたり、執筆の場を奪われたりしてきた学者や作家、ジャーナリストでした。

執筆した論文が元で東大を追われた経済学者の森戸辰男。

憲法研究会で、「天皇は君臨すれども統治せず」と政治的権限を持つべきではないと主張。

憲法研究会の草案で、天皇は次のように位置付けられています。

「天皇は国民の委任により、専ら国家的儀礼を司る」

草案を詳細に分析したラウエルは報告書を作成。

マッカーサー直属の参謀長に提出する。

報告書の中でラウエルはここ(民間の憲法研究会が提出した草案)に含まれている条文は「民主的で受け入れられる」としています。

ラウエル肉声

「私はこの民間草案を使って、若干の修正を加えれば、マッカーサー最高司令官が満足し得る憲法ができると考えました。

それで、私も、民政局の仲間達も安心したのです。これで憲法ができると。」

GHQは民間草案を分析しながら、日本政府から憲法改正案が提出されるのを待っていました。

天皇制に厳しい意見を持つ極東委員会が発足する

ーモスクワー

11:06 

GHQが主導する日本の占領政策に激しく反発したのがソビエトでした。

12月モスクワで、ソビエト、アメリカ、イギリス、3カ国の外相会議が開かれます。

ここで、日本の占領を共同で管理する連合国の新たな組織が設置されることになりました。

ー「極東委員会」ーです。

これまで占領政策はアメリカ政府のもと、GHQが実施していました。

しかし、極東委員会が発足すると、GHQは極東委員会の管理下に置かれます。

憲法改正には極東委員会の事前の承認が必要になったのです。

ソビエトや中国など11カ国で、構成される極東委員会。

その発足は1946年2月下旬と決まりました。

12:26 

極東委員会の中には天皇制に厳しい意見を持つ国もありました。  

ーオーストラリア キャンベラー 

太平洋戦争で4万人の戦死者を出したオーストラリア。

91歳になるハロルド・ブロック氏。

当時、極東委員会・オーストラリア代表を務めていました。

極東委員会は天皇制に厳しかった。
ハロルド氏インタビュー
「オーストラリアは、戦争中の天皇の役割に批判的な考えを持っていました。
天皇は日本の軍隊と密接な関係があったとみなしていたからです。
少なくとも天皇を戦犯として調査し、裁判にかけるべきだと考えていました。
1946年1月、オーストラリアは「天皇を含む戦犯容疑者のリスト」を連合国戦争犯罪委員会に提出。
天皇訴追に向け動き出します。
13:36 1946年1月24日、首相の幣原喜十郎がマッカーサーを訪問。
天皇をめぐる緊迫した状況が続く中、二人だけで行われたこの会談。そこで一体何が話し合われたのか。
会談の内容を伝える資料が残されていました。
枢密院顧問の大平小松氏が幣原首相から会談の内容を聞き、大平小松氏の娘がノートに書き残していました。
初めに幣原首相が切り出した。
幣原首相
「生きている間にどうしても天皇制を維持させたいと思っているが、協力してくれるか。」
マッカーサー
「天皇制は廃止するべきだとの強力な意見も出ているが、一滴の血も流さず進駐できたのは、全く日本の天皇の力によることが大きい。できるだけのことは協力したい。」
戦前、外交官として国際協調に努めた幣原首相は以下のように答えた。
幣原)
「世界から信用をなくしてしまった日本にとって戦争を放棄するということをはっきりと世界に声明すること、それだけが日本を信用してもらえる、唯一の誇りとなることではないだろうか。」
翌25日、マッカーサーはワシントンに当て、極秘の書簡を送ります。
「天皇を訴追すれば、日本人の間に激しい混乱を引き起こし、占領軍を大幅に増員しなければいけなくなる。最低でも100万の軍隊の増員が必要になる。」
ナレーション
天皇は占領政策に必要と考えるマッカーサー。
しかし、1ヶ月後に極東委員会が発足すれば、天皇に関する厳しい意見も考慮しなければなりません。
GHQは日本政府に対し、早く、憲法草案を提出するよう再三にわたって求めました。

日本政府の改正案=天皇の統治権はそのままの君主主義   新聞にスクープされる! 

17:15~
2月1日、衝撃的なニュースが報じられる。
毎日新聞が政府の憲法問題調査委員会の改正案をスクープ。
日本政府の憲法案がスクープされる。
明治憲法の根本原則を変えず、天皇の統治権はそのまま認められていました。
天皇の行為が制限されていない、極めて保守的なもの。
GHQは直ちに改正案を翻訳し、条文を詳細に分析。
次のように批判しています。
「天皇の行為が制限されていない」
「極めて保守的である」
(極東委員会が設置され、天皇に対して厳しい意見が出ている最中にも、日本政府は最後の最後まで天皇を中心とした国体を手放さない。ここについての並々ならない執着、信念を感じます。)
2月4日、午前10時、
GHQ、民政局のメンバーが緊急招集されました。
集まったのは法律や行政を担当するメンバー20人余り
会議の冒頭、民政局長コートニー・ホイットニー民生局長がこう伝えました。
「マッカーサー元帥は日本国民のために新しい憲法を起草するという歴史的意義のある任務を民政局に委ねられた。」
(日本政府には民主的な憲法は作れないと判断したということ)
ナレーション)
極東委員会が発足されれば、憲法改正の承認は天皇の罪を問いたい極東委員会が持つことになる。
GHQに与えられた時間はわずか1週間。日本政府だけでなく、GHQの他の部署にも秘密で開始される。
 
18:42~ GHQ民政局員 ミルトン・エスマン氏
「とても衝撃を受けました。大国の一つである日本のために、我々のような小さなグループが、新しい憲法を作成するという任務を任されることになったのですから。
我々がそのような職務を推敲するようになるなんて、思いもしませんでした。」
極東委員会の発足まであと1ヶ月をきっていました。
マッカーサーは極東委員会が動き出す前に、GHQ主導で草案を作成することを決断したのです。(19:46〜)

天皇に厳しい極東委員会が動き出す前に、GHQ主導で草案を!

GHQ運営委員会の三人は経験を積んだ弁護士

マッカーサーは新憲法の基本原則を示しました。いわゆるマッカーサーノートです。
その1番目は、天皇に関するもの。
天皇は、国の最上位にある。
2番目には、現在の憲法9条につながる
戦争の放棄が定められていました。国権の発動たる戦争は廃止する。
以下、マッカーサーが示した新しい憲法の基本原則

この中の「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する」と、自衛戦争までも否定している条文。

これを削除したのは、GHQ運営委員会のケーディス。

21:39 チャールズ・ケーディス民政局次長が、自衛戦争まで否定したマッカーサーノートの個所を削除した。その理由について述べている。

「どんな国であれ、自衛の権利は本来的に持っていて当然のもの。自国が攻撃されたら自分で守るという権利を否定するのは非現実的なことだと思ったです」

一方でケーディスは「武力による威嚇または武力の行使をも放棄する」という一文を加え、侵略戦争の否定を明確にした。

(つまり自衛のための反撃、攻撃は当然の権利としながら、侵略戦争につながる武力による威嚇は放棄させたということ)

GHQが最も留意したのが天皇

23:06 GHQが最も留意したのが天皇制の存続。マッカーサーノートでは The head ofと国の最上位を示す存在としていたものを象徴を意味するシンボルに書き換えられた。

ケースディー「最上位では(天皇は)国のトップになり権力を持っているとみなされる恐れがあった。それは連合国が拒絶していたことでした。政治的権限を持たせないという意味で象徴という言葉に変えた」

24:20 GHQはアメリカやフランスなど世界各国の憲法に加え、日本の民間草案も参考にした。

(民間の「憲法研究会」は、権力者のためではなく、国民のための憲法を目指していた)  

 ダウエルの証言(動画内、ご本人のインタビュー):私たちは確かにそれ(民間の憲法研究会の草案)を使いました。

この辺りのことをさらに詳細に描いている番組はこちら。

h●ttps://youtu.be/2cefTxSkQYs

25:11 GHQの運営委員会はテーマごとに7つの小委員会が設けられ、総勢二十五人で条文の作成にあたる。

草案作りで一番多くの条文を作成したのが人権に関する小委員会でした。

その中で女性の人権について担当したのはベアテ・ゴードンさん。当時22歳。

ベアテさんは2歳から15歳まで日本で暮らす。女性が圧迫されて大変だったということを経験していた。女性が好きでない人と結婚させられるなど。

ベアテさんが書いた婚姻に関する条文。男女平等を規定した条文は現在の憲法に生かされることになった。

28:00 1946年2月12日 11章92条からなるGHQ草案が完成

2月13日、外務大臣官邸にて、日本政府とGHQとの会談が行われる。

松本国務大臣と吉田茂外務大臣は、日本政府の作った改正案の回答が聞けると思っていた。

が、GHQ民生局長のホイットニーは、日本政府に対して、「あなたがたの憲法改正案は自由と民主主義の文書として受け入れることは不可能」

GHQ草案を受け入れるように日本政府に促した。

マッカーサーは、日本政府に、「(日本の憲法案では)連合国側の天皇制に対する批判に耐えられなくなるかもしれない。しかし、GHQ草案の基本原則を受け入れれば天皇は安泰になるだろう」と。

ホイットニーは加えて、「逆にあなた方日本政府が拒否すれば、マッカーサー元帥はこの草案を日本国民に公表し、国民投票にかけることを決断するだろう」

29:46 日本政府はGHQ草案を極秘に検討。 2月22日 幣原首相は天皇制を守るためにGHQ草案の受け入れは避けられないと決断。  GHQ草案をもとにして、およそ2週間で政府案を作成するように指示。 政府案の起草は松本国務大臣と、内閣法制局第一部長の佐藤達夫を中心に極秘に進められる。

32:00 1946年3月4日午後10時 佐藤はGHQからの催促を受け、政府案をもってGHQに向う。 この時すでにワシントンでは極東委員会が発足していた。

このときの佐藤内閣法務局長の感想が肉声で残されていた。佐藤氏はGHQ草案ついて、

「全然これは我々、憲法問題調査委員会で作った案とは内容が違う。非常に衝撃を受けた。こういうものを短い期間に日本式に書き上げられるかどうか非常に疑問に思ったわけですが、寸刻を争うということですから、早速それを持ち帰って検討に入ったわけです」

と話している。

(ここでGHQが書いた英文の草案を日本語に直すという作業が始まる。

改憲派がよく言う、「敵国から英文で渡された憲法を日本語に当てはめるという屈辱的な憲法が今の憲法だ」と言う場面がここだと思われる。

ただ、このとき、日本語に直されたGHQ案の憲法に日本側が修正を加えたが、今度は日本側が英文に訳している時間がなかったので、日本語のままGHQに渡されている。今度はGHQの方がそれを英語に直していったのだ。

押し付けているわけではなく、相互意見を照らし合わせて草案作りをしていることがわかる。

また、GHQが改憲案を主導するに至ったのは、日本政府があくまでも君主制をすてず、極東委員会からの批判に耐えられない草案を作ってくることにあった。)

GHQは日本案を英訳する中で、天皇に関する条文が微妙に変えられていることを知る。33:05〜あたり。

GHQは天皇の権利を大きくしたくなかった、日本政府は天皇の権利を大きくしたかった。

そのために天皇に関するところでは大変だったと当時通訳もしていたベアテさんは話す。

また、次に女性の人権についても、日本政府はこれを削除するように言ってきた。

日本側は、女性の人権は日本の歴史、文化に合わないという意見だった。

このときケースディは、日本政府の人とベアテさんが仲が良かったことを知っていたので、女性の権利についてはベアテさんが担当したと話す。これにより、この条文はパスすることができた。

38:03  3月5日の午後4時 すべての条文草案が完成。

30:32 1946年3月6日 日本政府は緊急の記者会見を開き、憲法改正草案要綱を発表 主権在民。戦争の放棄。真新しい言葉が新聞の紙面をにぎあわせた。

主権在民を明確に 極東委員会とGHQ

マッカーサーはこの案に全面的支持を表明。

39:18 これに対して、極東委員会は日本の新憲法を承認するのは極東委員会だと、激しく反発。極東委員会が正式に発足してから10日も経たないうちに、マッカーサーが日本の天皇制を保持する憲法草案を発表したことに、委員会は仰天していた。これだけ重要なことを極東委員会の審議を経ないで、マッカーサーが独断で決定したのだから。

憲法改正で既成事実を積み重ねようとするGHQ。

この事態に極東委員会はどう取り組もうとしたのか。

40:46 極東委員会の内部資料には、日本国憲法の交付まで、11か国の連合国がのべ100回を超える会議で議論を重ねていたことが記録されている。

マッカーサーが日本国政府の憲法草案に独断で承認を与えたことに、各国から批判が相次ぐ。批判の矢面に立たされたのがアメリカ代表のマッコイ。マッコイはマッカーサーの承認は個人的なもので、極東委員会の承認こそが必要だと述べる。

日本の新憲法の承認は極東委員会にあることが改めて確認される。

また、極東委員会・オーストラリア代表からは新憲法には日本国民の意思が広く反映されることも求められる。

政府の憲法改正案は議会で審議されることになる。

42:34 1946年4月10日 戦後初めての総選挙実施。女性にも初めて選挙権が与えられ、三十人を超える女性議員が当選する。

選挙の結果、幣原(しではら)首相が退陣。吉田内閣が誕生。 政府の憲法改正案が議会で審議されることになる。

6月、第90回帝国議会が開かれる。政府の改正案が提出され、これ以後、議会での審議と修正が行われることになる。

7月2日、ワシントンの極東委員会が新しい憲法が満たすべき基本原則を決定。

一番目に掲げられたのは、主権は国民にあることを認めなければいけない。『国民主権』の明確化。

これはすぐにマッカーサーに伝えられる。

(*天皇がトップに来る君主制を最も恐れていたと思われる)

44:21 GHQは日本憲法の改正案が、極東委員会の基本原則を満たしているか詳細に分析。  主権が「国民」にあることを、明文化するよう日本政府に要請 。GHQは、日本語では主権が曖昧になっていることに気づく。

民政局のケーディスは日本語の曖昧な言い回しについて、主権の所在について日本語は極めて不明瞭、英文の文字をことさらに歪曲したものと思われる。このまま承認すれば、マッカーサーは非常に愚かだと言われても返す言葉がない。

主権が国民にあることを明文化してもらいたい。

日本側の回答

憲法担当大臣・金森徳次郎:あれで良いと思っている。あれでダメならまず自分が職を辞さなければいけない。

ケーディスは極東委員会がこの憲法案について何か意見を言うとすれば、必ずそれは主権在民の問題である。場合によっては天皇制そのものも否定してくるかもしれないと伝える。

その後、日本側も主権在民であることを宣言。

第1条に天皇は象徴とされ、国民主権が明確に書かれることになる。

日本人自らが修正案を出していたことは50年間秘密にされた

48:27 7月25日 帝国議会では政府案の修正が始まった。

秘密会として行われた(日本側の)小委員会。

その議事の内容は戦後50年間封印されていた。

平成7年に公開されたその速記録からは、条文の修正がGHQの要求だけでなく、日本人自らの発案で実現していたことが浮かび上がってきました。

最低限度の生活を保障した生存権の追加、戦争放棄の9条の条文の修正が小委員会で行われていた。

51:22 森戸辰雄(憲法研究会のメンバー)は生存権を強く主張した。

「国民は健康にして、文化的水準の生活を営む権利を有する」生存権の条文を新たに追加するよう求める。

生存権を定めた条文は日本政府の改正案にはなかった。

森戸は戦前、経済学者として貧困の問題に取り組んでいたが、言論弾圧で大学の職を追われた。その後ドイツに留学、一つの憲法に出会う。

第1次世界大戦後のドイツ国憲法=ワイマール憲法、ここに世界で初めて生存権が書かれた憲法だった。敗戦後、焦土と化した日本では生活が困窮し、餓死者が続出。それを目の当たりにした森戸はワイマール憲法のような生活権の条文を入れたかった。

53:58 8月1日、森戸の提案が受け入れられる。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を追加 第25条(第1項)

53:58 速記録には義務教育に関する条文も小委員会で修正されたことが記されている。小学校までだった義務教育を中学校までにすることが決まる。義務教育は無償とする。

日本人も求めた戦争放棄

56:04 戦争の放棄を定めた第9条にも修正が加えられる。  

戦争放棄の前に、以下の条文を入れることを社会党の鈴木義男が提案する。

鈴木義男「戦争放棄を日本人が自ら積極的に宣言するようにしたい」

この意見に賛同の声が上がる。

これを受け、外交官出身の芦田均(戦前、軍部を批判する演説を行うなどしてリベラルな政治家として知られていた)も「戦力を保持せず、交戦権を否認する、それを高らかに世界に宣言する」と主張した。

この部分はGHQによって書かれたと思い込んでいましたが、日本人からこのような意見が出ていたこと、またそれに多くの賛同の声があったということは知りませんでした。

GHQ憲法と言われる所以は、この戦争放棄にあったわけですが、マッカーサー草案ではケースディがそれを否定しました。どんな国であれ自衛の戦争は認められると。

しかし、日本人の方でも自衛の戦争すらいらないと考える人が多くいたことがわかります。

文章の組み立てについても意見が交わされる。

最終確認で「前掲」が「前項」に変わって読み上げられ、そのまま修正案として

通ってしまった。

内閣法制局の佐藤辰雄氏は、

「こんな修正をすると自衛のためには戦力が持てると司令部が解釈して

こんな修正は許さない」というかもしれませんねと芦田さんに言った。

芦田さんは余計な心配はするな、大丈夫だという顔つきだった。

が芦田はその後、自衛力を持つことは認められていると主張する。

英訳を担当していた外務省終戦連絡事務局事務官の島静一氏はとにかく憲法改正を早くやる、その解釈については後で考えればいい、という感じになっていたが、これが後に議論を呼ぶことになってしまった。

自衛のための軍隊ならいいのか?中国の反発

1:03:10 政府の改正案の修正はワシントンの極東委員会に伝えられ検討された。 9月21日、9条の修正を巡って議論が紛糾。

9条の修正案では自衛のために日本が軍隊を持つ可能性が残されていると批判する中国。

自衛というのはそれを理由に侵略することも多い。勝手に解釈することができる修正はやめた方がいい。

極東委員会の中ではその中国に賛同する国が相次いだ。

修正案では日本の軍隊が復活し、軍人が日本の政治に関与するのではないかという懸念を抱く連合国。

1:05:33 このとき、ソビエトがある条文を追加するように提案。問題は日本政府が自衛のためならある種の軍隊を持っていいと日本国民を欺く可能性があること。

すべての条文に「シビリアンコントロールの追加すること」すべての大臣の資格として軍人を認めず、シビリアン、つまり文民でなければならないという条文の追加を吉田首相に迫った。

アメリカはまた極東委員会のほうにも修正案を認めるように働きかける。

  極東委員会で、日本の議会における9条の修正は了承され、文民条項の追加が決定する。

1:11:54  1946年11月3日 日本国憲法が公布

ーーーー

日本の民間人が草案を書いている記録がこれだけあるのに、なぜGHQ憲法と長きに渡ってレッテルを貼られてきたのか。

国民を思う多くの民間人と、敗戦という環境がよく作用してできたのが今の日本国憲法。

自民党の改憲草案には今の憲法がやっと獲得した人権が削除され、政府の独裁を可能にする緊急事態条項さえついてきます。

敗戦で憲法を改正して、弱められたのは政府の権力で、国民は人権、男女平等、生存権、民主化などでしっかり守られるようになったのが日本国憲法でした。

日本を中国のような国にしないためにも、日本国憲法は決して変えてはいけません。

少なくとも勝共連合の憲法草案とほぼ同じの自民党の憲法草案には絶対に変えてはいけません。

この動画を教えてくれたTwitter主はこちら。

 

自民党の憲法草案には、この憲法研究会が入れた「基本的人権」が削除されている。

https://nokonote.com/憲法改正で基本的人権を失う日本人

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