<書籍>「明治維新という名の洗脳」苫米地英人

<書籍>「明治維新という名の洗脳」苫米地英人

明治維新と現代はつながっている

明治維新とは何だったのか。お金の流れから明治維新とは誰が仕組んで何がなされたのかを解明している苫米地氏の本。

日本政治の闇「特別会計」のルーツは萩藩(長州藩)の撫育資金にあった

2002年、特別会計について調べあげ、国会で質問に立つことになっていた民主党の石井紘基議員。質問予定だった日の朝、自宅近くで刺殺された。

今も続く日本政治の闇と言われる特別会計。そのルーツは長州藩(当時の名前は萩藩)にあった。

長州は維新の戦争で大金を使っている。

それ以前から攘夷の決行を唱えていたために、武器弾薬の経費はかさみ、一説によれば明治維新前後で現在の価値で最大100兆円もの出費があったとされている。

そのお金はどこにあったのか。

萩藩の財政は逼迫し、士族も町民も農民もずっと苦しい生活をしていた。

だが戦費が豊富にあった。この、お金はどこからきたものなのか。

萩藩には現代の特別会計につながる撫育資金というものがあった。

その資金は、萩藩の領民たちから搾り取った重税を原資としていた。

明治新政府では、その萩藩の撫育金を管理していた志士たち(元撫育局員で、大蔵官僚であった伊藤博文、元撫育局員で大蔵大臣であった井上馨、元撫育局トップで明治政府参与であった木戸孝充ら)によって新政府にも組み込まれた。

常に一般会計よりも潤沢な資金が蓄えられ、その思想は「民より藩」=「国民より政府」を優先している。

撫育資金は現在の特別会計へ続いている。

一般会計の数倍の資金力を持ちながら、何があっても一般会計とは無関係。中身を公にせず、使用目的も議会の承認を得る必要がない(=藩主のOKさえあればいい)。その担当者による無駄遣いまでそっくりだ。

領民から重税を取る一方で、萩藩の藩士、高杉晋作、井上馨の豪遊っぷり、湯水のようにお金を使った事実。

そのためか、萩藩は農民一揆が多発する藩として知られるようになる。

特に1831年に起きた一揆では13万人以上の民衆(農民、商人、職人まで)が蜂起する史上最大の一揆に発展している。

萩藩の裏金会計は明治新政府を支配した長州閥によって、同じ裏金制度(特別会計)として組み込まれた。

これまで多くの政治家がこの制度改革に取り組んだが一度として成功したことはない。

それでもたった一度だけ破壊できるチャンスはあった。それは太平洋戦争後、GHQによって解体されそうになった時だが、結局アメリカ側の思惑の中で温存が決まり、現在に至るまでほとんどメスが入っていない。省庁の統廃合はあったにせよ、その仕組みと思想は何も変わっていない。

(GHQも残したということはその方が後々アメリカにもメリットがあると踏んだためでしょう。)

明治に作られた官僚制度、政治制度が150年たった現在もほとんど変わっていない

倒幕後、維新の志士たちはそのまま新政府の要人となった。つまり官僚は長州閥によって独占された。

特に西南戦争後はそれが顕著となる。これが意味するものとは新政府の官僚制度は長州閥が作りあてたと言うこと。

大蔵省はその初期から長州閥が牛耳っていたが、その長州出身の志士たちはみな撫育局員だった。

元撫育局員で大蔵官僚であった伊藤博文、元撫育局員で大蔵大臣であった井上馨、元撫育局トップで明治政府参与であった木戸孝充らが新政府に裏金制度を(特別会計)を埋め込んだ。

明治の官僚機構はそんな彼らが作ったものであり、その制度は約150年経った現在でもほとんど変わっていない。

そのほか司法の制度にも初代司法大臣に、元萩藩出身者がついている。また現在の、最高裁判所の前身である大審院の初代、二代、四代目の院長も萩藩出身者がついている。

また警察組織における薩摩閥の存在。

明治期によって作られた派閥で初代の大警視(現在の警視総監)はほぼ薩摩藩が独占状態で、時々土佐藩か、肥前藩、肥後かで薩長土肥の長を抜いた人々がこの国の警察権力を握ってきた。

いい悪いは別として、官僚制度、政治制度の中で、この時期につくられたものが平成の世になっても脈々と生き続けている。

歴史は勝者が書く

長州藩と言われている藩名は実は、公式には「萩藩」「長藩」と呼ばれていた。

勝海舟や高杉晋作の日記などでも長州藩という表現は出てこない。

呼び名を変えることができるという意味を著者は以下のように説明している。

たかだか呼び方ひとつがなんだと思うかもしれないが、正式名称が変わってしまっているということは重大な問題だ。これができるということは、歴史を曲げることができる、確かな証明となるからだ。

しかも変わったことにほとんどの日本人が気づいておらず、変わったものの方が正しいとすら思ってしまっている。

これを「洗脳」というのだ。

恐ろしいのは、わずか150年前の近代史を捻じ曲げる力が`明治維新”を取り巻く現象の中にあるということ。

日本人の多くは近代史を司馬遼太郎の小説やNHKの大河ドラマで学んでいる。

そこからして、かなりまずい。テレビドラマに影響されて歴史観を作られてしまっているのではないか。

2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」は、官邸サイドからNHKに指示があったことがわかっている。

また同じ2015年、軍艦島で話題になった「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されたことも政権の意向が働いている。

内訳には、松下村塾、萩城下町、旧グラバー住宅、鹿児島の吸収性館、小菅修船場跡(三菱重工業が管理)、三菱長崎造船所などがある。

政府はこれを明治日本の産業革命というテーマで括っているが、これはどう見ても薩長の討幕の歴史遺産であり、その裏には“財閥”の影までチラつく。

では本当の明治維新とは何だったのか。

明治維新の闇とは

幕末時代は誰が敵で誰が味方なのか、よくわからない事態がたびたび出現する。

その原因は、薩摩藩といっても開国に反対する本気の攘夷派が存在する一方で、開国に賛成して、外国の力を利用して倒幕に向かおうとする一派も存在したことが事態を複雑にしている。

萩藩内部、土佐藩内部も同じように、二派が拮抗し、その時々において優勢になった方が藩是となり藩政を左右した。

萩藩の中でも数年で攘夷派から開国派へと変わっていっている。

またイギリスといっても、イギリス国家の政策(開港して自由貿易)を進めたいものと、戦争させてお金を貸して儲けたいだけの武器商人や国際金融家がいて、イギリス人であってもその思惑は違っていている。

そこを見ないと維新が見えてこない。

幕末の謎解き

イギリス側とは結局「イギリス政府ではなく、国際金融家たちのこと」であった。

これがわかると幕末の謎が次々に溶けてくる。

たとえば開国派であった高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(薫)らがなぜ品川の御殿山に建設中のイギリス公使館の焼き討ち事件を起こしたのか。

これは、1863年1月31日の出来事で、この4ヶ月後に伊藤と井上はイギリスに留学している。

この焼き討ち事件には、山尾庸三も参加している。長州ファイブのうち3人までがイギリス公使館焼き討ちの犯人なのである。

彼らが繋がっていたのはイギリス政府ではない、外国との戦争を仕掛ければ莫大な利益を期待できる国際資本家だった。

国際資本家が薩長を支援したのは、彼らが戦争の火種だったから。戦争さえ起こせれば彼らは儲かる仕組みになっていた。

イギリス系銀行がぞくぞく上陸

戦争が起これば儲かる仕組みが日本において確立された時代。

1863年は、上の高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(薫)によるイギリス公使館の焼き討ち事件だけでなく、5月におなじ萩藩が外国船を無差別砲撃し、7月には薩英戦争が勃発した。

そんな中、イギリス系の銀行が次々日本にやってくる。

1863年3月、イギリス資本のセントラル・バンクが横浜に設立。

初めての外国資本の銀行であり、初めての日本に設立された銀行だった。

同年4月、(ボンベイで設立された)マーカンタイル銀行が横浜支店を開設。

同年10月、同じボンベイのコマーシャルバンク横浜支店出店。

1864年8月、ロンドンに本店を持つオリエンタル・バンクこと、東洋銀行がやってくる。

1863年から相次いで4つの外資系銀行が設立されたことになる。

なぜ、このタイミングで外資系銀行が次々横浜に支店を設立されたのか。

ここに幕末・明治の究極の答えが隠されている。

銀行は戦争になるタイミングでやってきた。

武器弾薬を売るのに最も適したタイミング。

 

戦争が起きるとその瞬間、当事国の通貨は暴落する。

それは現在でも同じで、たとえば日本と中国が戦争すると円と元が暴落する。国際決済で信用されなくなるから。

実際、萩藩が外国船に向けて無差別テロをおこなったことや、薩摩とイギリスが戦争したこととより、これらの戦争行為によって日本の通貨“両”とイギリスのポンドが国際決済で使えなくなった、事実上消えたことが特筆すべき出来事だった。

当事国の通貨が使えなくなると、外資系銀行が貸し出す国際流通通貨を使用する以外に道はなくなる。

当時、欧米各国はずっと戦争を繰り返していて、自国の通貨は国際決済に使用できなかった。

そのため当時のアメリカ合衆国の法定通貨でもあったメキシコ・ドルが採用された。

この時期、世界の銀の半分を産出していたのはメキシコだった。

そのメキシコをさらに超える産出量を誇ったのが日本だった。

日本はもともと鉱物資源国で金も世界トップクラス、銅も当時世界一の埋蔵量だった。

外資系銀行はこの銀と銀にも狙いをつけていた。

1860年代は、ロスチャイルド家を筆頭とする国際金融資本家たちがイギリス、フランス、そしてアメリカも含む各国で通貨発行権を握っていた時代。

上に書いたように、戦争になれば、当事国の通貨は使えなくなる。

しかし戦争を続行するにはどうしても金が必要で、必然的に当事国政府は国際通貨を外資系銀行から借りなければならなくなる。

通貨発行権者たち(ロスチャイルドのような国際金融資本家)は国際決済通貨を貸して、金利を取ることができる。まさに濡れ手に粟のビジネス。

だからこそ彼らは国際流通通貨の使用国を広げていきたい。

見方によっては、通貨発行者(ロスチャイルドのような国際金融資本家)が戦争を率先して起こすべく、暗躍しているようにさえ感じる。

そうなると一体誰がこのタイミングで外資系銀行を呼び寄せたのか。

ここでクローズアップされるのが薩長とイギリスの関係。

長州ファイブの留学と彼らとロスチャイルドの繋がりに自然と注目が集まる。

長州ファイブ、薩摩の留学、幕府の遣欧使節団の背後に国際金融資本家

長州ファイブを留学させたのはマセソン商会。

薩摩スチューデントたちを留学させるために尽力を尽くしたのはマセソン商会、長崎代理店のグラバー。

幕府の使節団はフランス公使のロッシェがナビゲートしている。

そして彼らは揃って、イングランド銀行を見学している。

結局考えられるのは幕府勢力にも反幕府勢力にもイングランド銀行の代理人がいたと言うこと。

イングランド銀行はロスチャイルド家を筆頭とする国際金融家の持ち物。

長州ファイブがイングランド銀行を見学したあと、今度は幕府の遣欧使節団(1867年)がイングランド銀行を訪れている。

その時幕臣はイングランド銀行の見学者名簿に、薩摩藩の新納刑部、五代才助、堀宗十郎の名を見つけて色めき立ったという。

国際金融家はイングランド銀行を薩長の人間だけでなく、幕府の侍たちにも見学させていた。その意味は、新政府が作られた後にも彼らを取り込んでいく意図があったのでは。

一例として、明治新政府の大蔵大輔となった伊藤博文は、政府の中でただ一人、金本位制を採用するように主張した。当時、世界は銀本位制であり、金本位制だったのはイギリスぐらいだったのにだ。

そして結局日本は金本位制を採用する。実は金本位制は国際金融家たちが推進する制度で、通貨発行権をより強化できる仕組み。伊藤はその尖兵になってしまっていた。

維新で最も利益を得たのは戦争のスペシャリストである国際金融資本家たちであった。

江戸時代の260年間(1603年から1868年)は戦争らしい戦争など起きていないのに、明治になった途端、頻繁に戦争が起きるようになったと云う事実が意味することは・・。

 

二つのイギリス

幕府側についていた「イギリスのハモンド外務次官」と「フランス公使ロッシェ」

イギリスのハモンド外務次官からイギリス駐日公使ハリー・パークスに宛てた通信の一節(『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』萩原延壽著)にはこのように書かれている。

(イギリスのハモンド外務次官)

「日本において体制の変化が起きるとすれば、それは日本人だけから端を欲しているように見えなければならない。じじつ、その変化は我々の考え方と異なる仕方で起きるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、かつ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない」

イギリスが陰から日本をコントロールしていたことを言外に吐露しているような文言。

と同時に、実際、日本の学校で明治維新について学ぶとき、背後で操っていた国際金融家の存在は隠されてきた。これはハモンド外務次官の狙い通りに展開してきたことを意味するのではないか。

ハモンド外務次官は極東政策の現場のトップ。

イギリスの対日方針は実質、ハモンドが決めていたといっても過言ではないため、イギリス陰謀説を裏付けるものとされてきた。

パークスの通信文の中では、伊藤俊輔、五代才助(友厚)寺島宗矩ら、薩長の英国留学生たちは、エージェント(スパイ)と呼ばれていたこともイギリス陰謀説に繋がる。

しかしそもそも、幕末時代、外国と和親条約、通商条約を締結したのは幕府。それに反対したのは天皇および攘夷論者たち。

つまり反イギリス、反欧米勢力は長州、薩摩(生麦事件でイギリス人を殺傷した)の方だった。

実際、フランス公使ロッシェも幕府側についていたし、イギリス外務次官パークスも薩長を視野に入れていたものの基本は幕府についていた。

イギリス公使パークスは、特に徳川慶喜に対しては「日本であった最も優秀な人物」と絶賛している。

このころ、フランス公使ロッシェは幕府にフランス陸軍の教官を派遣している。

それに激怒したパークスは、幕府に英海軍大佐トレイシイ率いる海軍教官団を日本に呼び寄せたりしている。

つまり、フランスもイギリスも、常に幕府側についていることがわかる。

■アーネスト・サトウはイギリス駐日通訳官

イギリス本国の英国公使ハリー・パークスが幕府を支持していたのに対し、アーネスト・サトウは薩長の倒幕をサポートしていた。

彼の著書「一外交官から見た明治維新」から、苫米地氏がさらにわかりやすく訳し直しているところが以下。

「もしもイギリスが自ら日本を統治しようと思えばできなくはない。なにしろ、この国の人民には服従の習慣があるのだから。ただし、そうするためには言葉の壁を乗り越える必要があり、その試みは多分失敗に終わるだろう。そんなことをするよりは、せっかく侍階級があれほどたくさんいるのだから、彼らに統治させるのが一番だ

また、サトウは「日本人を制するには実力差を見せつける方が効果的だと言うことだ」とも言っていて、これには桂小五郎(木戸孝充)も同意見であった。

アーネスト・サトウと同じ反幕府勢力で、薩長をバックアップしていた人物として長崎の武器商人グラバーがいる(マセソン商会代理店)。

グラバーは、反幕府勢力の薩長、特に薩摩を強力にバックアップしていた。

サトウは倒幕派に「開港反対」の大義名分を与えるため、自らコラムをジャパンタイムスに寄稿している。

自ら寄稿し、自ら日本語に訳し、それをサトウのエージェントと呼ばれる日本人たち、勝海舟、伊藤俊輔、五代友厚を使って配布させた。

サトウのコラム「英国策論」に書かれていたこと、

「日本の元首は将軍ではなく天皇であると説き、将軍が貿易を独占しているのは不当であり、諸藩は自由貿易を行う権利を持っていると主張するもの」

これは当時の西国の雄藩たちが最も欲していた大義名分であった。

幕府を支持するパークスが鹿児島の西郷を訪ね、なぜ兵庫港の開港に反対するのかを聞いたとき、西郷はサトウのコラム「英国策論」の通りに答えている。

外国に歯向かうため兵庫開港に反対しているのではない。

幕府が貿易を独占するのを阻止するために一旦開港に反対し、朝廷の調整のもとで、大名会議を開いて、広く日本の港を開港するためだったと説明した。

パークスにとってはどこが貿易を独占するかよりも開港することが大事なため、どんな理由であっても開港反対は容認できない、反対しないよう釘を刺した。

これがパークスと薩摩藩の秘密会談の中身だと言われている。

サトウのコラム「英国策論」は薩摩だけでなく萩藩も宇和島藩も藩是の参考としていた。

パークスら外国公使との会見などでは、判で押したように倒幕ではなく自由貿易を望んでいると答えている。(倒幕の意図はないことを主張し、安堵させた)

しかし、もちろん薩長たちは、制度の変革だけではなく、王朝の変革=倒幕を望んでいた。そして、それを応援していたのがサトウだった。

この時点で外務次官パークスの進めるイギリス外交とイギリス駐日通訳官サトウの進める倒幕運動と2つの流れができていたことになる。

戦国時代 明治

明治維新の実態は、外国主導。もっとはっきり言えば国際金融資本家たちによって遠隔操作されていた可能性が十分にある。

少なくとも明治が戦争の時代になってしまったことは事実。

どういうわけか現代人は明治を日本の夜明けだと何となく思ってしまっている。

その理由は、司馬遼太郎と彼の筆によって描かれた坂本龍馬のイメージによるところが大きい。

しかし明治の実像は全く違う。戦国時代だといってもいいほど戦争が多かった。

明治維新を詳細に調べた結果、撫育金の謎やエージェントの正体などが見えてくる。

その過程で龍馬の暗殺の真相にもある程度の答えが出てしまう。

しかし、戦前の歴史家たちにそんなことが書けるわけがない。明治、大正、昭和期は依然として薩長閥が政治の中枢にいる。

龍馬の死の真相を書けば、彼らを外国の傀儡だと名指しすることになってしまう。

明治の言論統制の徹底ぶり

明治は言論統制が徹底的になされた時代だった。

それにより明治維新の真実がなかなか書けなかったという背景があるようだ。

たとえば、新聞は内務大臣がその発行及び停止の無制限の権限を持ち、政府に関する批判はもちろん、元武士である官史たちの横暴を暴露したり、揶揄しただけでも発禁処分とされてしまっていた。

新聞紙条例、出版条例、集会条例、保安条例の言論4法によって、全ての報道は完璧に政府の管理下に置かれていたのである。この内務大臣の権限は1945年まで、つまり明治の始まりから太平洋戦争敗戦までの70年間ずっと続いていたのである。

敗戦後、日本はGHQによって新聞雑誌の検閲、日本人の手紙まで検閲されていた。GHQに都合の悪い本は焚書されてもいた。

しかし、実はその前の明治からすでに、日本には言論の自由がなかったのだ。

著者は本の中で、明治維新の志士たちの子孫が今も日本の政治を固めている系図を書いています。

脇道情報:下の本では、明治から続く世襲議員の実態を詳細に書いています

明治の開国とは、DSの金融制度が日本に作られたことを意味する

経済が最優先の今の日本の政治。

国民の資産を使って一部の人間の私服を肥やす。こんなことが平然とまかり通っている現代、そのきっかけは明治から始まっている。

苫米地さんは、この本の終わりを、このように締めくくっています。

民主主義の最後の敵は資本主義だと。正確に言えば金融資本主義こそが民主主義の最大の敵である。

特に金融資本主義は通貨発行権者と彼らに利益を支払う多国籍巨大企業だけが優遇されて最大の政治権力を持つ、ひどい差別社会が形成される。

中央銀行を作り、その中央銀行の株を渡すこと、たったそれだけのことで、彼らはその国の全ての富を手にすることができるのである。

明治の開国とは、鎖国を解いたことや貿易を始めたことではなく、国際金融資本家たちがもたらした金融制度を日本国として採用したことなのだ。

江戸時代の日本と明治の日本が全く違うのはその制度を入れたためである。

本の中で、このまま金融資本家にコントロールされるような日本であれば、アメリカのような格差拡大の未来が待っている。そうならないために、自分で調べ、判断し、動いていくこと。

それが民主主義の一つの形であり、金融資本主義と戦う力だと書いています。

「明治維新という名の洗脳」には出てこない天皇

明治維新は王政復古の大号令で始まっている。政権を朝廷に返すこと、天皇を中心にした国家を作った明治新政府のもとで、天皇のお金事情はどうなったのだろう。この「明治維新という名の洗脳」では天皇のことには一切ふれられていない。

この件に関しては「日本人の99%が知らない戦後洗脳」の方に詳しく出ている。

維新前、天皇家の財産はあまりなかったと思われているが、『皇室財政沿革記』によると、今の金額にすると5億円ほど所有していたこと。

明治新政府は、議会が始まって政府財産を民間に放出させよと言われることを警戒し、全国各地にあった官有地を皇室所有に書き換え、同時に政府所有の株式・債権も天皇家のものとした。

結果、天皇の持株は日本銀行の資本金1000万円のうちの半分500万円分を所有することになった。

天皇の銀行と言われた横浜正金銀行の資本金300万円のうち、3分の1にあたる100万円分、日本郵船への政府出資金260万円分が全て天皇家のものになった。

加えて金山、銀山、官林地なども天皇家のものになり、天皇の所領は日本国民全員が持つ土地とほぼ一緒で、日本の富の半分以上を天皇家が握ることになった。

そこから、日清、日露、日中戦争で、天皇はその資産を驚異的に増大させていった。

第2次世界大戦後、GHQは「金融取引の統制に関する件」という通達を日本政府に送っている。その中に「皇室財産の詳細を報告しろ」という指示もあった。

衝撃的なのは、この通達の中で、GHQは天皇家のことを「The greater of the“Money gang”」(世界最大級のマネーギャング)と表現していること。

第2次世界大戦後、アメリカ陸軍情報部は「皇室が間接的に太平洋戦争に投資していたことは間違いない」と明言し、GHQは「皇室そのものが三井、三菱、住友などの旧財閥及び東京電力と利益共同代であったことを示唆している」と報告している。

天皇が財閥と一緒に戦争で利益を得る過程については、鬼塚英昭氏の「日本の本当の黒幕」にも詳しく載っている。

その他にも、水原紫織氏の本「もう一人の明治天皇ー箕作奎吾(みつくりけいご) 」には、日本は英国領であるということが官報という公文書に記載されていると書かれている。

この話を裏付けるものになるのか、1947年の対日理事会で、GHQ外交局長ジョージアチソン氏は以下のように発言している。

「米国人は日本人が、真に民主的で協力的英連邦の一員に日本を作り上げることを期待している」

 

苫米地さんの本から逸れてしまいました。

真偽を確かめられない情報もありますが、明治維新についても、現在の皇室についても、実は肝心のところを長らく隠されてきて、本当の日本の姿、天皇についても、実はわかっていないことが多いのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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